金澤一郎先生のこと(武藤)

2016/01/20

本日、国際医療福祉大学大学院 名誉大学院長の金澤一郎先生が亡くなられました。金澤先生は、東京大学医学部を退任された後、数々の要職を歴任され、そのお肩書きには枚挙に暇がありません。一般的によく知られているのは、宮内庁皇室医務主管を務められたことであろうと思います。

これから出るであろう、金澤先生を悼む報道では、金澤先生とハンチントン病との関わりに触れるものは少ないと思いますが、金澤先生は、日本で数少ないハンチントン病研究の第一人者であり、私は多くのことを教えて頂いた一人です。

金澤先生に初めてお会いしたのは、1996年、私が大学院博士課程に入学して2年目のことでした。私は、世界各国のハンチントン病の患者・家族会の国際団体(International Huntington Association)への視察から戻り、完全に感化された状態でした。

そこで、私は、全く面識のなかった金澤先生との面談予約を取り、日本でも患者・家族会をつくりましょう!と、直球で思いを伝えました。金澤先生は、私に「日本で作るのは無理じゃないか」、「よくハンチントン病のご家族の意見を聞いてみたらどうか。でも僕は紹介しないよ」と躊躇なくおっしゃいました。こうしたご見解は、長年の臨床経験から先生がご覧になってきた、ハンチントン病の患者・家族の方々の苦しみを踏まえてのものでした。

そもそも、近視眼的な、見ず知らずの文系学生に、まずはよくぞお会い下さったと恥じ入る思いですが、ここで金澤先生が立ちはだかって下さったことは、とても有り難いことでした。おかげで、私の中では、「いやいや、絶対に仲間がほしいというニーズはあるはずだから、いつか保守的な金澤先生をギャフンといわせたい」という稚拙な対抗心と同時に、「私自身が何も日本の当事者の苦しみをわかっていないだけかもしれない」という謙虚な危機感も生まれました。

その後、様々な縁が結ばれ、2000年に、日本ハンチントン病ネットワーク(JHDN)という会が組織されました。金澤先生もお招きした「JHDNお茶会」で当事者が語り合っている姿を目の当たりにされたときには、本当に喜んで下さいました。その後も、金澤先生はいつも応援して下さり、様々な場でJHDNのことを話題にして下さったほか、ハンチントン病の発症前遺伝子検査のガイドラインを一緒に訳してくださいました。豪放磊落、でも繊細に多くの方面に気を配られ、最後はえいやっとナタを振るう、そんなイメージの先生でした。

2週間ほど前、金澤先生から久しぶりにお電話を頂きました。療養を第一とした暮らしをされていたことは存じていましたが、かつて金澤先生をお招きした、記念すべき「JHDNお茶会」から15周年となる今年の夏に、私は記念講演を依頼していました。しかし、残念ながら、お電話のご用件は、講演辞退のお申し入れでした。「声は元気そうでしょ。でも病室からは全く出られないし、夏にはヘロヘロになっているかもしれない」と。その後の会話は、ご体調のこと、東大のこと、医科研のこと・・・でも金澤先生が抱かれていた夢のお話や、私への過分な労いのお言葉に至ったとき、これはお別れのご挨拶だと確信しました。私の嗚咽が金澤先生にバレないように、「ぜひまたお会いしましょう」とお伝えするのが精一杯でした。

金澤先生は、基礎研究の論文のみならず、総説や様々なジャンルのエッセイもお書きになりましたが、いくつかの著作について、特に若手の方に接して頂きたく、ここにご紹介致します。これまで多くのご指導を頂いたことに心から感謝し、ご冥福をお祈り致します。

【ウェブサイト上から自由に読めるもの】

【図書】

  • 金澤一郎「ハンチントン病を追って: 臨床から遺伝子治療まで」,科学技術振興機構,2006.6.
    (東京大学ご退職を契機に編まれた書籍です)