STAP細胞問題をめぐって(武藤)

2014/03/16

STAP細胞問題について、マスメディアの方々から多数の問合せをいただいているのですが、現時点でコメントしたい事柄がなく、全てお断りしています。

とはいえ、ここでは、まだ余り指摘されていないことを3つほど、備忘録として挙げておきたいと思います。

(1)理系論文の「背景」「目的」部分への労力/評価のバランスを見直そう
(2)科学という不確実な営みに対する、「契約」や「評価」がもたらす歪みを問い直そう
(3)「細胞を創り出す」思想や行為に特有の、研究倫理上のリスクを洗い出そう

なお、いま願うことは、理化学研究所でのSTAP細胞作製手順公開から2週間経過しましたが、いまだに再現実験を繰り返して苛立っている友人たち、どういう(不正な)行為を足し引きすればSTAP細胞ができあがるのかを実験している友人たちが、睡眠不足の日々から早く解放されることです。以下、長文。


(1)理系論文の「背景」・「目的」部分への労力/評価のバランスを見直そう

文系の研究者からみますと、生命科学(あるいは理系全般?)の研究者は、論文の「背景」・「目的」に対する思い入れが少なすぎます。この思い入れのなさの原因は、論文のインパクトが「方法」と「結果」であって、「背景」と「目的」にかける執筆労力も、論文全体からみた配点/評価も低く割り当てられているためではないでしょうか。従って、執筆者もその上長も、「背景」・「目的」におけるコピペへの垣根が極めて低く、むしろ常態化しているのではないかとも感じます。このことは、生命科学・医学の世界にやってきたときのカルチャーショックの一つでもありました。

個人研究を中心とする文系の研究者にとっては、自分のレゾン・デートル証明のためにも、論文の「背景」「目的」は、極めて重要な執筆過程になります。逆に、文系の研究者の論文は、「方法」部分の記述が全体としてpoorになりやすく、「結果」「考察」の区別をつける必要性は研究領域によっても異なるため、論文が「作品」/「エッセイ」/「論説」になりやすいリスクを秘めていることも指摘しておきます。

(2)科学という不確実な営みに対する、「契約」や「評価」がもたらす歪みを問い直そう

2005年に韓国の黄禹錫氏によるヒトクローン胚からのES細胞樹立の捏造が発覚したときには、日本の研究コミュニティは、それを「初のノーベル賞をほしがった韓国の話であって、日本は関係ない」と冷笑していました。

しかし、2007年にヒトiPS細胞が作製されるようになると、「万能な細胞を創り、利用することを目指す」研究領域では、「オール・ジャパン」での産学連携体制が進み、確実に実用化できる成果を出させなければ、研究機関としても、個人としても、大幅に評価が低下する環境が、他の研究分野に先駆けて整ってしまいました。つまり、本来、科学は、成果を確約できない不確実な営みであるにもかかわらず、この数年の間で、「成果は論文ではなく実用化」という評価軸が産まれ、「実用化に資する成果を出す」ことをスポンサーと「契約」して研究せざるを得なくなりました。

大規模予算の獲得を目の前にして、素人にわかりやすい説明責任を求められるようになると、研究責任者は、素人受けのよい研究テーマや成果説明を、そして広告代理店を調達しようとします。こうして、イノベーションを目指す営みには大規模予算がつく一方、基礎科学を目指す営みは、「科研費で細々とおやりください」という環境が完成したように思います。その両方を同じ「科学」と呼んでよいのか、はなはだ疑問です。

結果として、個々の研究者個人の営みは、実用化に向けた下請けとしてさらに分業化され、かつてない労働環境が進んでいるように思います。若手研究者の自虐的な呼称である「ピペット土方/奴隷」という言葉が出てきて久しいですが、彼らはもっと大きな構造変化のなかでの「ピペド」に転換したともいえます。

むろん、日本の生命科学は、ほぼ国の税金によって支えられており、厳しい財政難のなかでこれを差配する官僚からみれば、国民への説明責任や国民へ成果還元を重視せざるを得ないという立場も理解できます。しかし、余りにも短期間のうちに、環境が大きく転換されたことの功罪を、いま見直しておく必要があると考えます。

(3)「細胞を創り出す」思想や行為に特有の、研究倫理上のリスクを洗い出そう

まだ漠然とした、またぼんやりとした懸念ですが、「万能な細胞を創り、利用することを目指す」研究領域では、その思想や行為自体に内包される、独特の研究倫理上のリスクが存在しているのではないかと思うようになりました。

従来同定されてきた倫理的な課題としては、①受精卵を滅失させるES細胞の利用、②女性からの採卵や卵子売買、③iPS細胞から作製した生殖細胞の受精の禁止などがあります。確かにこれらを除けば、法令・指針で同定している範囲での、生命倫理上の問題はないのかもしれません。

しかし、古くは、1981年のクローンマウスの捏造事件に遡るかもしれませんが、一般的な臨床研究のデータ捏造とは異なり、「新しく万能な何かを創り出す」こと、あるいは「新しく万能な何かを創り出す科学者になること」には、独特な魔の差し方、あるいは、彼らを魅了する何か、があるように思われるからです。

ここで述べている漠然とした研究倫理上のリスクとは、

  • コピペや画像処理が容易になった時代における一般論としての研究不正リスク
  • (2)で述べたような、契約や評価へのプレッシャーがもたらす歪みから生じる研究不正リスク

とも異なる、新たな問題として認識しないと、この研究領域での研究不正はなくならない予感がします。まだ具体的なことは何も指摘できませんが、考え続けていきたいと思っています。